最後の空襲 祖母犠牲に
終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけて、秋田市土﨑地区や埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市で米軍による「最後の空襲」があった。「あと半日でも早く戦争が終わっていたら……」。熊谷市の空襲で祖母を失った松井貞夫さん(80)は72年たった今も悔しい思いを抱いている。
松井さんは当時8歳。自宅は熊谷市中心部にあったが、出征していた父親を除く家族5人で、10日ほど前から約3㌔離れた郊外の親戚宅に疎開していた。
8月14日深夜、空襲を知らせるサインで目が覚めた。すぐ防空壕に逃げたが、辺り一面を明るく照らす照明弾に「このままでは殺される」と感じた。
焼夷弾を避けるため、集落から離れた約100メートル先の通りを目指して母親や姉、弟と走った。祖母、だいさんは逃げ遅れたのか、姿がなかった。親戚宅があった場所は既に炎に包まれて、助けに戻ろうとした母親は、周りの大人たちに止められた。通りに出て、4人で側溝に身を鎮めた。「ヒュー、サー」。焼夷弾が花火のような音をたて屋根瓦に落ちると、「ガーン、ガラガラ」と轟音が鳴り響いた。「何も見たくない」。恐怖で小便が漏れた。しばらくして気が付くと、爆撃は終わっていた。
熊谷空襲では200人以上が命を落とした。だいさんの遺体は15日、親戚宅の近くで見つかった。日本が戦争に負けた事は、大人たちの口づてに知った。「もう空襲はなく、夜もちゃんと寝られる。命を奪われることはない」。子供心にほっとした。
母親と自宅を見に行くと、焼野原に焦げた庭の柿の木が残っているだけだった。「徹底抗戦」と書かれたビラが落ちていたののを覚えている。
「最後の空襲」を巡っては、米軍司令官がぎりぎりまで作戦中止を模索していたことが、米公文書から明らかになっている。
あれから72年。「米国はなぜ作戦を止められなかったのか」「日本がポツダム宣言を受託を少しでも早く発表していれば」。自問自答を繰り返してきたが、気持ちの整理はついていない。「戦争は何の罪はない人が軽々しく殺される。とにかくやってはいけない」
*半日の違いで、当人は当時8歳でかけがいのない、なんの罪もない祖母が空襲で殺されたのでは、悔しさは、とれないでしょう。
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